雫石 あ ねっ こ。 雫石町

シモネッタ

雫石 あ ねっ こ

石城 しずくいし-じょう は、岩手県岩手郡雫石町字古館の標高200mにある丘城で、比高は10mと、周辺より少し高い所にあります。 別名としては、古くは滴石城と書き、 ・八幡館とも呼ばれました。 最初の築城は不詳ですが、 時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます。 平衡盛 たいらのひらもり は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました。 更に、その子・戸沢兼盛は、1206年に から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、を築きました。 ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は から戻ることはありませんでした。 その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である 主・ によって攻撃を受けたようです。 1540年、 には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました。 戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました。 現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした。 その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです。 南部領となった滴石を、 の斯波詮高が攻撃したようで、一度は、石川高信に撃退されますが諦めず、1546年に次男・斯波詮真 しば-あきざね が入って雫石詮貞 しずくいし-あきさだ と称し3000貫文にて「斯波・雫石御所」を開きました。 この頃、雫石に改名しています。 また、遠野の 主・阿曾沼氏の一族である綾織広信 綾織越前広信 が、雫石御所を頼って逃れて来たとも、軍師として迎えられたとも言われています。 綾織越前は滝沢の地に、灌漑用堰を1586年頃に完成させています。 しかし、 の代になると、1584年~1586年まで何度も雫石城が攻撃を受けて、周辺を徐々に失います。 1586年、雫石御所の3代目・雫石久詮 しずくいし-ひさあき は、繋舘市城主・高橋出雲を に送って、和平交渉をしましたが高橋出雲は捕縛され、また南部勢に攻撃されました。 ついに、雫石久詮は「よしゃれ」の故事 後述 を残し、雫石城を捨てて戸沢氏の家臣・手塚左京に譲ると、陸奥・高水寺城に逃れたと言います。 その手塚氏も繋舘市城に退却したため、雫石城に残ったのは百姓ばかりだったとされ、雫石城は落城しました。 高橋出雲は許されて釈放され、手塚左京は仙北角館に落ち伸びたと言います。 雫石町の祝いの席では必ず「よしゃれ」が唄い踊られてきました。 これは、雫石城には水の手として、葛根田川上流から地下水路を使って用水を敷いていたそうです。 そして、この水路が南部勢に発見されないよう、茶屋を設けて、美人の女将に見張らせていたと言います。 南部勢は隠密を使って水源を察し、ついに茶屋に目を付けて、女将に水路の秘密を聞き出そうとしましたが、見破られてしまったという話が、歌詞になっています。 その後、踊りが付けられて、民俗芸能・雫石よしゃれになった次第です。 雫石城への交通アクセス・行き方としては、JR秋田新幹線・ 線の雫石駅からタクシーで約5分となります。 今回は止めることが見つからなかったのと、3月も終わろうとしている時期でも雪が降って来たため、道路から写真1枚だけ撮影して退散しました。 城址付近には駐車場が無いので、雫石駅の駐車場に停めると徒歩15分となります。

次の

よしゃれって何?|元祖「よしゃれそば」の店 食堂いしや|JR田沢湖線雫石駅北口から徒歩1分

雫石 あ ねっ こ

全日空機雫石衝突事故 全日空 58便・航空自衛隊 訓練機 事故の概要 日付 1971年7月30日 1971-07-30 概要 自衛隊機のジェットルートへの侵入、及び機の接触回避の遅れに起因する 現場 負傷者総数 (死者除く) 1(地元住民) 死者総数 162 行方不明者総数 0 生存者総数 1(自衛隊機乗員) 第1機体 同型機のボーイング727 機種 運用者 JA8329 出発地 目的地 乗客数 155 乗員数 7 負傷者数 (死者除く) 0 死者数 162(全員) 生存者数 0 第2機体 事故機と同型機の航空自衛隊のF-86F 機種 運用者 92-7932 出発地 乗客数 0 乗員数 1 負傷者数 (死者除く) 0 死者数 0(緊急脱出に成功) 行方不明者数 0 生存者数 1(全員) 目次• 事故機に関する情報 [ ] 58便に使用された-281型機(:JA8329、:20436)は(46年)に製造された。 総飛行時間は865時間56分であった。 運航乗務員 [ ] 機長は41歳男性で、を経て(昭和36年)に全日空に入社した。 総飛行時間は8,033時間44分で、そのうち242時間5分がB727型機の飛行である。 ダグラスDC-3、コンベアCV-440、フォッカーF-27、ボーイング727の運行資格を保有していた。 副操縦士は27歳の男性で、1965年(昭和40年)10月11日に全日空に入社した。 総飛行時間は2,237時間55分で、そのうち624時間50分がB727型機の飛行である。 YS-11およびボーイング727の運行資格を保有していた。 は30歳の男性で、1970年(昭和45年)2月19日に全日空に入社した。 総飛行時間は2,489時間30分であった。 3人のコックピットクルーは、50便、57便に続く当日3回目のフライトだった。 客室乗務員 [ ] 4名の女性客室乗務員が乗務していた。 事故の経過 [ ] 衝突までの状況 [ ] 1971年(昭和46年)、午後0時45分発行の全日空58便 は、折り返し当便となる全日空57便の到着が既に45分遅れていたため午後1時25分に定時より45分遅れて地上滑走を開始し、午後1時33分に離陸した。 乗客のうち122名は団体旅行客でのの旅行団一行であった。 また3人は旅行会社の添乗員であった。 58便はにジェットルートJ10Lで向かい、午後1時46分に通過した。 この時の飛行高度は22,000フィート 6,700 m であった。 ここで高度を上昇しながらNDBに向けて変針し、管制所に「松島NDB通過は午後2時11分の予定」と通報した。 ここから巡航高度を28,000フィート 8,500 m に上昇し自動操縦で飛行していた。 一方、派遣隊所属の2機(訓練機:機体登録番号92-7932、教官機:同02-7983)は、編隊飛行訓練のためによる飛行計画で航空自衛隊(松島飛行場)を午後1時28分頃に離陸した。 教官(、当時31歳)は訓練生(、当時22歳)に対し、離陸前に、訓練空域はであること、基本隊形(ノーマル・フォーメーション)、疎開隊形(スプレッド・フォーメーション)、機動隊形(フルイド・フォア・フォーメーション)および単縦陣隊形(トレール・フォーメーション)の訓練を行ったのち松島飛行場へ帰投し、(ADF)による進入訓練を行う予定であること、編隊の無線電話の呼び出し符号はライラック・チャーリーであること、および訓練時間は1時間10分であることなどを指示したが、経路と高度については説明をしなかった。 訓練空域は、横手訓練空域の北部をその一部に含む臨時の空域(付近)であり、松島派遣隊は、ジェット・ルートJ11Lの中心線の両側9km、25,000フィート 7,600 m から31,000フィート 9,400 m の間を飛行制限空域とし、やむを得ない場合を除き訓練飛行を禁止していた。 衝突 [ ] 事故までの全日空機と自衛隊機の飛行経路 付近上空で午後2時2分39秒頃、方向へ190度の度を取って飛行していた全日空58便機と、付近上空を飛行訓練していた2機の自衛隊機のうち1機が、約28,000フィート 8,500 m で空中衝突した。 教官および訓練生、約30分後に現場を通過した航空機の操縦士の報告によれば、事故当時、雫石町上空は視界は良好で下層雲が少しある程度であった。 事故を撮影した写真からもそれは確認できる。 左旋回中に機の後ろ側、時計で6時半から7時の方向に、訓練機とそのすぐ後下方に接近している全日空機を認め、直ちに訓練生に対し接触を回避するよう指示し、自らは訓練機を誘導する意図で右に旋回し、続いて左に反転し、墜落していく全日空機の下をくぐり抜けた。 また同じ頃、訓練機は教官機の右側後方約25度の線上約5,500フィート 1,700 m の距離の地点の上側約3,000フィート 910 m を飛行し、教官機の右旋回と同時に飛行要領に基づいて高度を上げ下げして教官機の後を追った。 次いで教官左旋回に追従しようと旋回中に、教官からの異常事態の通信が入り、その直後自機の右側、時計の4時から5時(120度-150度)の方向至近距離に大きな物体を認め、直ちに回避操作を行ったが追突された。 訓練機は左60度バンク機動による回避を実施したが、衝突の約2秒前(距離約500m)からでは既に手遅れであった。 そのうえ訓練機は全日空機の進行方向に旋回する形となってしまったため、結果として全日空機に追いつかれることとなった。 両機体の破損状況から、全日空機は機体の最も上の部分にあるの安定板左先端付近前縁を訓練機の右付け根付近に引っかけるような形でした。 全日空機にはは装備されていなかったが 、同機と千歳飛行場管制所、千歳ターミナル管制所および札幌管制区管制所との交信は通常通りに行われていた。 全日空機が事故当時に135. 9で発信した音声が付近を飛行中の航空機によっても傍受されており 、これらの音声の分析により、コックピット内の状況が分析された。 これによれば、操縦輪に備わっている全日空機機長のブームマイクの送信ボタンが、衝突7秒前から0. 3秒間、衝突2. 5秒前から約8秒間にわたり空押し(キーイング)されていることが分かった。 送信ボタンを空押しすると送信されるが他の交信を妨害するため、操縦士が意識的に空押しをすることは通常はない。 これら送信ボタンの空押しを 操縦輪の握り直しと捉えると機長の動作は次のように想定される。 衝突7秒前(14:02:32. 1 - 14:02:32. 4):自機の間近に訓練機を視認、あるいはそれ以前より視認していた訓練機が、予期に反し急接近してきたため、操縦輪を強く握る。 衝突2. 5秒前(14:02:36. 5 - 14:02:44. 8):訓練機が斜め前方に接近してきたため緊張状態となり、再度操縦輪を強く握る。 衝突後は機体の立て直しを行う。 衝突9秒後(14:02:47. 8 - 14:02:53. 6):機長は自機が操縦不可能となった事を把握し、緊急通信を発する。 「、エマージェンシー」という音声が記録されているが、後半は絶叫と受け取れる解読不能の音声で終わる。 ほぼ同時に教官機からも243. 0MHzで「エマージェンシー、エマージェンシー、エマージェンシー」という緊急通信が発信された。 墜落 [ ] 衝突後、双方の機体はともに操縦不能になった。 全日空58便はしばらく降下しながら飛行していたが、水平安定板との機能を喪失していたため、降下姿勢から回復できずに増速し、やがてを超え約15,000フィート 4,600 m 付近でして。 搭乗していた乗員乗客162名全員が死亡した。 全日空機がを超えた際のものと思われるが盛岡市内の病院屋上など、墜落地から離れた場所でも確認されている。 衝突直後には大きな白い状の物が発生した事実を多くの者が目撃しており、金曜日の晴天で白昼に起こった事故であったが、全日空機が墜落して行く姿を写真撮影した者も複数いた。 事故発生後の写真に関しては、発行の『』1971年8月15日発行の緊急特別号の表紙に「全日空機 散る」との見出しとともに、空中で自衛隊機と全日空機が接触し、機体が空中分解した後の全日空機が白いの白煙を曳きながら墜落していく様子を捉えた写真が掲載されている。 偶然近くの上空を飛行していた114便や、上空を飛行していた全日空61便のパイロットが、状況を把握できず混乱に陥った58便からの通信を傍受していたが、それもすぐに途絶えてしまった。 操縦士らは地面に激突して大破した機首の中で発見された。 また機体が空中分解したため、事件現場の近傍で働いていたり通行していたりした目撃者は「黒い豆のようなものが落ちてきた」と証言している。 乗員、乗客達は安庭小学校のある西安庭地区を中心とした雫石町内の各地に全日空機の残骸とともに落下し、極めて凄惨な状況で発見された。 また、全日空機の車輪の残骸が民家の屋根に落下・貫通し、当時81歳の住民の女性が負傷した。 墜落の衝撃によるはなかったため、比較的早くの身元が判明したが、遺体は高速で地上に叩き付けられたため、極めて凄惨な状況を呈していたという。 また遺体をしていたが犠牲者のうち1名を取り違えるミスをしたため、身元確認の精度について疑問が持たれることとなった。 一方の訓練機は、接触の後、錐揉み状態に陥った。 訓練生は装置のレバーを引こうとしたが、機体の回転による遠心力のため手をレバーへ動かすことができず、射出できなかった。 しかし、(風防)が離脱していることに気づいたため、安全ベルトを外して機体から自力で脱出、で東南約300mのに降下して生還した。 無人となった訓練機も空中分解し、田んぼに墜落した。 また教官機は、松島飛行場管制所に訓練機が旅客機と接触したことを通報し、その後、現場上空を旋回して救援機や管制所に位置や状況などを通報し続けていたが、帰投命令を受けて午後2時59分に松島飛行場へ着陸した。 全日空機と自衛隊機の残骸のほとんどは、東西約6km、南北約6kmの範囲に落下していた。 全日空機の残骸は、左水平尾翼と垂直尾翼の一部を除いて、雫石駅の東2kmから3. 5km、南3. 5kmから5kmの範囲に落下した。 訓練機の残骸は、右主翼以外は雫石駅の西約1kmの地点に、翼付根から先の右主翼は雫石駅の東1. 3kmの地点に落下した。 事故調査 [ ] 当時はまだ常設のが設置されておらず、事故調査のため「全日空機接触事故調査委員会」がに設置された。 この全日空機接触事故調査委員会が(昭和47年)7月27日にに提出した事故報告書では、事故の原因は次のように発表された。 第1の原因は、教官が訓練空域を逸脱してジェットルートJ11Lの中に入ったことに気づかず訓練飛行を続行したこと。 第2の原因は、• 全日空操縦者にあっては、訓練機を少なくとも接触約7秒前から視認していたと推定されるが、接触直前まで回避操作が行われなかったこと。 これは、全日空操縦者が接触を予測していなかったためと考えられる。 教官にあっては、訓練生が全日空機を視認する直前に訓練生に対し行った接触回避の指示が遅く、訓練生の回避に間に合わなかったこと。 これは、教官が全日空機を視認することが遅れたためと考えられる。 訓練生にあっては、接触約2秒前に、事故機の右側やや下方に全日空機を視認し、直ちに回避操作を行ったが接触の回避に間に合わなかったこと。 これは、訓練生が機動隊形の訓練の経験が浅く、主として教官機との関係位置を維持することに専念していて、全日空機を視認するのが遅れたためと考えられる。 また、事故報告書は、事故の背景として、航空交通の急速な発展に伴い種々の問題が発生していると指摘した。 早急に法制度の整備と完全な実施を行うべしとしたのは次の5点である。 航空機の姿勢を頻繁に変更する特殊な飛行は、原則として航空交通管制区または航空交通管制圏では行えないよう法的に明確化すること。 また、飛行訓練を行う際は訓練空域からの逸脱を防ぐため、訓練機の性質、訓練の形態および規模等に応じ必要な方策が講じられるよう措置すること。 航空機の操縦者は、航空交通管制に従っていてもいなくても、飛行中は他の航空機と衝突しないように見張りをしなければならないよう法的に明確化すること。 航空路、ジェット・ルートに対するポジティブ・コントロールの徹底を図るとともに、事故を防止する装置を開発、装備すること。 航空保安業務に関して、、両省庁はなおいっそうの協調を図ること。 さらに、独立した事故調査委員会を常設すべきこと。 当時の国による航空管制は機が飛行していた時代と基本的に変わっておらず、を覆域する航空路監視は設置されておらず、航空路管制は操縦士からの位置通報を元に地図盤上で識別して指示及び許可を与えるというノンレーダー管制が主流であった。 そのうえジェットルートもにジェット機に比べ運航速度が低いレシプロ機旅客機を運航する前提で制定されてから変更されておらず、ジェット、プロペラが混在し大変危険な状態であり、また訓練空域を横断する航空路が設定されていた。 また後になって旅客機と戦闘機が空中衝突する事故がでは1950年代からにかけて続発していたが、日本においても1965年頃からが続発していた。 いずれにせよ、事故調査報告書の勧告のとおり航空行政立ち遅れが事故の発端であり、現在の様に自衛隊による訓練支援、航空路監視レーダーによる航空路管制、訓練空域と航空路等の明確な分離、航空局と航空自衛隊間の訓練空域使用に関する連絡調整システムが確立されていれば起こり得なかった事故であった。 この事故以降、同種の事故は現在まで発生していない。 事故後 [ ] 航空路と訓練域の完全分離 [ ] 事故直後の1971年(昭和46年)8月7日、政府の中央交通安全対策会議は、 1 自衛隊訓練空域と航空路を完全分離すること、 2 訓練空域は防衛庁長官と運輸大臣が協議して公示すること、 3 その域内を飛行するすべての航空機に管制を受けることを義務付ける特別管制空域を拡充すること、などを定める「航空安全緊急対策要綱」を発表した。 航空法の改正 [ ] 1975年(昭和50年)6月24日には改正航空法が参議院で可決成立し、同年10月から施行された。 この改正航空法には、 1 航空管制空域における曲芸飛行と訓練飛行の原則禁止、空港周辺空域における通過飛行の禁止と速度制限、特定空域の高度変更の禁止と速度制限、などの運航ルールの厳格化、 2 ニアミス防止のために見張りなど安全義務とニアミス発生時の報告義務、 3 と等の安全運航に必要な装置の装着義務が明記された。 そして、 4 これらの規制はそれまで適用されていなかった自衛隊機にも適用するものとした。 レーダー設備の拡充と空中衝突防止装置の設置義務化 [ ] アメリカでは1956年に発生したの後、全国の航空網をカバーするためにレーダー施設の建設と整備が本格化した一方、日本では本事故を教訓として、全国でレーダー網や空港の拡充が本格化した。 国は航空路監視レーダー ARSR の導入を推進し、(平成3年)6月に日本国内のほぼ全域を17基のレーダーでカバーし1基が故障しても他のレーダーでバックアップが可能なレーダー管制システムが完成した。 また、 TCAS が開発され、日本国内を飛行する5,700を超えるか旅客定員19名以上の機への装着が航空法で義務づけられた。 防衛庁・自衛隊、自衛官の対応 [ ] この事故の責任を取る形で、当時の・と・が辞任した。 刑事裁判における裁判の費用は国ではなく被告人個人が負担した。 個人で賄える額ではなく、航空自衛隊OB組織「つばさ会」などからのカンパを受けた。 有罪判決を言い渡された元教官は、自衛隊法の規定により失職した。 元教官は再審請求も辞退し 、パイロット職に復帰することもなかった(2005年8月死去)。 また、訓練生は最高裁判決後、戦闘機からパイロットに転じ、2003年(平成15年)10月に定年退職するまで人命救助の任務に当たった。 ANAグループ安全教育センター [ ] 全日空機の部品は、(平成19年)1月19日から、同社の研修施設内()になど他の人身死亡事故の残存する遺品や資料を保存・展示して社員の安全教育を行う「ANAグループ安全教育センター」で公開されている。 センターでは事故現場近くで回収した部品のほか、垂直尾翼下のエンジン空気取入口の一部や、胴体側面の製外板など、雫石事故のものは入り口からすぐの位置に展示されている。 2006年8月、墜落現場から数百メートル離れた急斜面に窓枠や座席など事故機の部品10点近くが埋まっているのが発見され、全日空社員によって回収された。 ANAグループでは、本事故とが発生した7月を、「航空安全推進・航空保安強化月間」として定めている。 この事故以降、全日空機が関係した乗客死亡事故は発生していない。 追悼施設 [ ] 森のしずく公園 [ ] 全日空機が墜落した現場は「慰霊の森」として整備され( : )、に当たる2003年まで同所で毎年慰霊祭も開催されていた。 (平成15年)以降は遺族らによる組織「一般財団法人慰霊の森」や地元住民・全日空社員によって大切に維持されている。 五十回忌を翌年に控えた2019年(元年)には大規模に改修された。 犠牲者の多くが富士市出身であったことから、新たに建立された「航空安全祈念の塔」は訪問者がの方角を向くように位置している。 2020年に「慰霊の森」から「森のしずく公園」に名称が変更された。 裁判 [ ] 本事件の裁判で争点とされた、あるいは問題となった点は次の通りである。 問題を論ずる前提としての、• 注意義務の内容• 注意義務の根拠• 可能性の程度と注意義務• 注意のメカニズム• 事実認定上の問題点• 接触時刻• 接触位置• 相対飛行経路• 一定空域への進入・訓練等の回避義務について• 見張り義務とその違反について• 航空機操縦者の見張り義務• 見張りの必要性の認識• 見張るべき範囲• 視認可能となる時間帯• その他の諸問題• 事故調査報告書の証拠能力• 判決における「責任制限」の効力 ここでは、このうち、事実認定上の問題についてのみ大まかに触れるにとどめる。 刑事裁判 [ ] 自衛隊機の教官と訓練生が、事故発生後33時間後にに逮捕され、にと違反の容疑で起訴された。 航空法違反は「安全な飛行を怠った」とする83条に抵触したとするもので、この条文は・の双方に責任が認定される可能性のあるものであった。 過去に発生した日本の航空事故では、自衛隊機と全日空機がで衝突した事故として((昭和35年))がある。 この事件で逮捕起訴されたのはのみであり、管制官は有罪判決となっているが双方の操縦者は責任を問われていない。 一方でが事故責任があると判断した(1963年(昭和38年))と(1997年(9年))では、裁判の結果、無罪判決となっているが、(1963年(昭和38年))では乗員が有罪となっている。 これらは全て乗員が生存していた航空事故であるが、乗員が死亡したの場合は(1991年(平成3年))と(2005年(平成17年))がある。 両事故では死亡しただけでなく、鉄道会社の運行管理者についてもにされており、いずれの事故も後に法人としての事故責任を追及されている。 第一審 [ ] 第一審の((昭和50年))は、教官に4年、訓練生に禁錮2年8月の判決を言い渡した。 盛岡地裁は、全日空機の飛行経路については「管制上の保護空域内西側」を飛行していた、とし、衝突地点については「本件全証拠によるもこれを確定することができ」ないし、の原則から強いて推論すべきでない、とした。 弁護側は全日空機操縦者に過失があったと主張したが、裁判所は、被告人らに過失があったことを否定するものではないとし、さらに、についてもこれを容れる余地はないとしている。 控訴審 [ ] 第二審の((昭和53年)5月9日)は、教官の控訴は棄却したが、訓練生に対しては一審判決を破棄し無罪を言い渡した。 訓練生は、当日の臨時の訓練空域の位置・範囲も、ジェットルートJ11Lの経路も知らなかったため、機位確認義務の存在が認められず、さらに、全日空機は接触の29秒前からは訓練生の注視野外にあったため、結果の予見可能性がなく、したがって見張りの注意義務違反が認められないとされたからである。 仙台高裁は、全日空機の飛行経路および接触地点については、事故調査報告書の推定に合理性があるとして事故調査報告書のとおりに認めた。 上告審 [ ] 上告審で、被告人弁護側は海法泰治(2審検察側鑑定人)の鑑定書を根拠に「全日空機がジェットルートを大きく外れて飛行したため、自衛隊設定の訓練空域内で空中衝突した」として、教官の無実を主張した。 (判決 )は、教官に『見張り義務違反』があったことを認定したが、被告人に対する量刑は教官一人にのみ刑事責任を負わせており酷過ぎるとして、2審判決を破棄して禁錮3年3年の判決を下した。 最高裁判決によれば、事故当日の経緯は次のようなものであった。 松島派遣隊の飛行訓練準則は、飛行空域内に5か所の訓練空域を設定し、飛行訓練毎に一つを割り当てるのを原則としていた。 事故当日の朝、割り当て予定だった訓練空域がで使用されることがわかり、飛行班長補佐のCは、飛行制限空域を考慮することなく臨時に訓練空域を設定した。 C三佐は飛行班長D三佐に、ジェットルートの記載のない100万分の1の地図を示して臨時訓練空域「盛岡」の設定を進言し、D三佐はそのまま承認した。 C三佐は主任教官Eにも同様に「盛岡」の設定を伝達した。 D三佐は飛行隊長Fに「盛岡」の設定を報告し、F二佐もそのまま承認を与えた。 E一尉は「盛岡」の正確な位置・範囲を全く確認することなく、教官・訓練生に対して訓練空域の指示を行った。 その際「盛岡」の具体的位置・範囲を指示・説明せず、特段の注意を与えることもしなかった。 教官は「盛岡」との名称から、臨時訓練空域は盛岡あたりを指すと考えたが、ジェットルートJ11Lは盛岡市街あたりの上空をほぼ南北に通っているとの誤った認識のもとに、その西側で訓練を行えばよいと考えていた。 このような事情から最高裁は、減刑の理由として「航空路に隣接して訓練空域を設定したうえに、被告人らに特段の説明もなく」「杜撰な計画に基づく上官の命令による訓練」であり「被告人らは訓練命令を拒否できなかった」として、上司の自衛隊基地幹部の怠慢があったことを認定した。 事故当初は訓練命令を出した部隊長も捜査されたが、最終的に起訴が見送られ、上司の自衛隊幹部は誰も起訴されなかった。 民事裁判 [ ] 乗客遺族による民事裁判は国を被告としたものが起こされた。 例えば、死亡した大学助教授の妻子に対する判決は(昭和49年)3月1日に4,823万円の支払いを国に命じ、国側がしなかったためそのまま確定した。 全日空側(全日空及び全日空に機体の保険金を支払った保険会社10社)が、国に対して第1条による損害賠償等を求める訴訟を提起したところ、国が全日空に対し715条に基づく損害賠償を求める反訴を提起し、全日空側と国側の双方が、互いに損害賠償を請求しあって争うことになった。 全日空は事故による営業損失など18億円、保険会社は全日空に支払った全壊した旅客機の航空保険金25億円、国は事故で喪失した戦闘機と被害者遺族に「立て替えて」支払った賠償金など19億円をそれぞれ請求するものであった。 第一審 [ ] 第一審の東京地裁(判決)は、教官機は接触の44秒前から14秒前の間に全日空機を視認し、訓練生機に適切な回避操作の指示を与えれば、また、訓練生機は同44秒前から30秒前の間に全日空機を視認し適切な回避操作を行っていれば、事故の発生を十分回避でき 、全日空機は同30秒前から10秒前の間に訓練生機を視認し適切な回避操作をしていれば事故の発生を十分回避できたと認定し、双方の過失を対比すると過失割合は6対4であるとした。 そして、この過失割合に従い国は全日空へ2. 7億円、保険会社に13. 2億円を支払うよう命令し、全日空は国に7. 1億円支払うよう命令した。 控訴審 [ ] 第二審の審議は双方の主張が鋭く対立したため判決まで10年以上かかった。 ((平成元年)判決)は、1審よりも自衛隊の過失割合を厳しく認定し、国2、全日空1であるとした。 これは「訓練空域設定自体に過失があり、自衛隊機も航空機ルートの間近で見張り義務を怠った、全日空機も衝突7秒前に決断すれば衝突を防げたのに回避措置をとらなかった過失があるが、ジェットルートの保護空域内であり過失の程度は小さい」と判示 した。 そのため、自衛隊(国)の過失が重いとされた。 また、損害額の認定に当たって航空機がたとえ新品(事故機は就航3か月であった)であっても、使用した年数に応じてした金額であるべきとされた。 裁判では全日空機の機体損害額は22億665万8,377円であると認定されたが、既に航空保険金でそれ以上の支払いを受けたとして賠償請求権は消滅したとされた。 そのうえで、東京高裁は国は全日空に7. 1億円、保険会社に15. 2億円、全日空は国に6. 5億円を支払うように判決を下し、双方がしなかったためそのまま確定した。 東京高裁は、全日空機の飛行経路を事故調査委員会の認定よりもさらに西よりとし、空中接触地点については、駒木野地区矢筈橋西詰から北西へ1. 5kmの雫石町西根の八丁野地区北側を中心とする半径1km以内とし、その西限はJ11Lの線上から西に約6. 7km離れた地点でJ11Lの保護空域の範囲内であるとした。 事故を題材にした作品など [ ] 『』第6話「雪の夜ばなし」 作。 『』1973年(昭和48年)12月24号発表。 本事件をモチーフにしている。 類似事故 [ ]• () - アメリカ、1958年。 - 、1960年(昭和35年)。 全日空と自衛隊機が滑走路で衝突した事故。 - アメリカ、1971年6月。 627. 625-626. 624. , pp. 624-625. 698. , pp. 689-691. , p. 689. , p. 631. , pp. 627-631. 691-696. 閉会後第1号. 第66回国会. 1971-08-02. "091 久保卓也"• 625. , pp. 632-634. , pp. 701-702. , p. 702. 293. , pp. 294-296. , p. 285. 全日本空輸株式会社. 2020年4月18日閲覧。 全日本空輸株式会社. 2020年4月18日閲覧。 日本経済新聞. 2019年11月20日. 2020年5月3日. 2020年5月3日閲覧。 松岡浩「雫石航空機空中衝突事件の研究 刑事・民事判決における「過失」認定を中心として 盛岡地判昭和50年3月11日 」『判例タイムズ』第385号、1979年7月10日、 2-24頁。 , p. , p. , p. , p. , pp. 25,27. 『朝日新聞』、1983年9月21日、東京夕刊。 第一小法廷判決 1983年9月22日 、、『業務上過失致死、航空法違反』。 , p. , pp. 20,21. , p. , p. 『朝日新聞』、1978年9月21日。 『朝日新聞』、1989年5月9日、東京夕刊。 , p. 参考文献 [ ] 事故調査報告書 [ ]• 運輸省全日空機接触事故調査委員会, 編纂. 「」『日本航空宇宙学会誌』第21巻第237号、、1973年、 626-640頁、。 運輸省全日空機接触事故調査委員会, 編纂. 「」『日本航空宇宙学会誌』第21巻第238号、日本航空宇宙学会、1973年、 689-702頁、。 書籍 [ ]• 柳田邦男『失速・事故の視角』文藝春秋〈文春文庫〉、1981年7月。 』清水保俊訳、イカロス出版、1997年5月1日。 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』事件犯罪研究会、東京法経学院出版、2002年7月。 『航空管制五十年史』航空管制五十年史編纂委員会、2003年3月。 佐藤守『自衛隊の「犯罪」雫石事件の真相!』青林堂、2012年7月18日。 裁判資料 [ ]• 「雫石全日空機・自衛隊機衝突事件第一審判決 盛岡地判昭和50年3月11日 」『判例時報』第773号、1975年5月21日、 21-76頁、 :。 「雫石全日空・自衛隊機衝突事件控訴審判決 仙台高判昭和53年5月9日 」『判例時報』第890号、1978年8月11日、 15-51頁、 :。 「雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事第一審判決 東京地判昭和53年9月20日 」『判例時報』第911号、1979年2月11日、 14-92頁、 :。 「雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事控訴審判決 東京高判平成元年5月9日 」『判例時報』第1308号、1989年6月21日、 28-108頁、 :。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] 墜落現場 [ ]• - 「慰霊の森」を示す記号がある• Google, Incによる作成. 2020年4月18日閲覧。 - 慰霊地の維持管理団体 オンライン資料 [ ]• 『』運輸省、1972年。 - 第6節 航空事故 1 航空事故の発生状況• 第1号. 第66回国会. 1971-08-04. Aviation Safety Network. 2020年4月18日閲覧。 マスメディア [ ]•

次の

道の駅 雫石あねっこ 産直しずくいし

雫石 あ ねっ こ

詳細は「」を参照 である。 ただし奥羽山脈の東麓に位置するため、降雪量が多くに指定されている。 9 53. 4 12. 7 54. 9 19. 4 66. 9 28. 5 83. 3 31. 8 89. 2 32. 6 90. 7 35. 1 95. 2 35. 8 96. 4 32. 9 91. 2 27. 0 80. 6 21. 4 70. 5 14. 7 58. 5 35. 8 96. 8 33. 4 1. 7 35. 1 5. 6 42. 1 13. 5 56. 3 19. 1 66. 4 23. 0 73. 4 25. 9 78. 6 27. 7 81. 9 23. 2 73. 8 17. 1 62. 8 10. 0 50 3. 7 38. 7 14. 3 57. 9 26. 3 27. 9 1. 1 34 7. 7 45. 9 13. 3 55. 9 17. 8 64 21. 3 70. 3 22. 6 72. 7 17. 9 64. 2 11. 2 52. 2 5. 0 41 0. 1 32. 2 9. 4 48. 3 18. 9 19. 4 25. 9 1. 9 35. 4 7. 5 45. 5 13. 2 55. 8 17. 4 63. 3 18. 5 65. 3 13. 4 56. 1 5. 9 42. 6 0. 4 32. 6 25. 5 4. 8 40. 7 3. 6 14. 5 29. 3 3. 6 38. 5 7. 6 45. 7 8. 7 47. 7 1. 4 34. 4 24. 4 13. 1 mm inch 69. 6 2. 74 64. 2 2. 528 92. 8 3. 654 108. 7 4. 28 120. 0 4. 724 132. 5 5. 217 230. 7 9. 083 206. 4 8. 126 184. 9 7. 28 115. 8 4. 559 120. 0 4. 724 99. 6 3. 921 1,545. 2 60. 836 cm inch 165 65 132 52 91 35. 8 5 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 12 4. 7 95 37. 4 499 196. 5 平均月間 84. 5 104. 3 137. 2 168. 6 185. 5 163. 2 134. 0 141. 1 114. 9 129. 4 100. 5 77. 7 1,547. 5 出典: 歴史 [ ] 沿革 [ ] のが発見されるなど、その歴史は古い。 町内各地の遺跡からにはすでに人々が定着していた形跡がある。 の勢力が雫石地域に至り開拓の手が伸びたのは、20年()のの頃であった。 滴石地域一帯に住む鬼の長(先住民の酋長)、(おおたけまる)を雫石の西根地域の中野村に兵を集めて田村麻呂がこれを攻め滅ぼした、と「巌鷲山縁記」に記載がある。 中央がの専制で地方政治の統制がゆるみ、安倍氏などの辺境在住勢力が台頭するにいたる。 の六男が滴石に在住したが、5年()に安倍氏が衣川柵、厨川柵で敗れると9月17日には戦死した。 後、がとして安倍氏の旧領をほぼ制圧するが、清原一族の内乱から国司の参加したが元年()に起こり清原氏は滅亡、が清原氏の支配地を継承した。 、がのを滅亡させると、岩手西部をに常陸相馬の平衡盛()に与えた雫石地域もそのとき支配下となる。 南北朝争乱の時代に南部氏、河村氏、和賀氏、葛西氏とともに南朝のに属し、激しく足利方と対立する。 には雫石地域はとが覇権を争う。 その際、にが雫石にを置いたことが語源で「御所地区」がある。 で敗れ、石巻の葛西氏を経て、滴石城のを訪ねて来る。 に、がとともにを攻める。 南朝側は足利方のとの不和やとの不和(観応の擾乱)の間隙をつきを拠点として団結し、を陥れているが、その後雫石地域の記録はない。 には地方分権的なが各地に形成されたが、雫石地方はの勢力圏として比較的安定していた。 (一説には)、長山村の、戸澤館のなどの勢力が台頭、境界をめぐり争乱をくりかえしていた。 天文9年()、三戸南部のが沼宮内氏、渋民氏、玉山氏、田頭氏、平舘氏を率いて侵入。 戸澤氏のみが服従を拒否したために滴石城が焼失し、戸澤氏は仙北郡に逃亡する。 、日詰のの斯波(雫石)が滴石郷に侵入。 一時雫石を支配し、斯波御所()を置く。 このとき初めて「雫石」の文字が使われる。 その後、12年()にの代に雫石地域攻略が始まり、天正14年()には敗れ雫石城はの伝説を生み落城、再び南部氏の所領になる。 南部氏は小田原でに謁見、服従、所領安堵を許される。 天正16年()、雫石城は豊臣秀吉の命令で破却される。 その後、徳川政権のもとの藩政下で280年間、幕末まで続く。 雫石地域はとの藩境を接していたため争いが絶えず、また秋田街道の交易の利便性から橋場御番所が置かれる。 雫石通は8年()、5年-6年(-)、3年-天明4年(-)、年間にはが起こり四大飢饉と呼ばれている。 3年()、を幕府が行うもが起こりへと戦火が広がる。 は奥羽越列藩同盟に参加し、鹿角口と生保内口に向軍勢を差し向ける。 雫石郷からは400名もの農兵が徴発された。 を総大将に生保内口に攻め入りと抗戦するも、地の利を得ず撤退した。 は時勢虚しく、降伏恭順を官軍側に申しでるが、盛岡藩の帰服が正確を欠くとの理由から国見峠に攻め込まれる。 橋場口が戦場となる。 この戦いで一村焼け落ち、マタギの(よぎ)が、長崎斥候隊長を鉄砲で狙撃死させるも、春木場から侵入され雫石郷は占領された。 盛岡藩の降伏が受理されて戦争は終わったが現在に至るまで、官軍に占領された時の恐怖は雫石町で語り継がれている。 詳細は「」を参照• (22年) - が施行され、雫石村の区域のみで 雫石村が成立。 (明治29年) - と南岩手郡が合併し、となる。 (15年) - 雫石村が町制施行し、岩手郡 雫石町となる。 (昭和29年) - 西山村の一部が御明神村へ編入される。 (昭和30年) - 雫石町・・・が合併し、新たに 雫石町となる。 1955年(昭和30年) - 雫石町の一部がへ編入される(現在の盛岡市繋)。 (昭和46年)機と機が衝突し墜落する。 (昭和55年) - 雫石スキー場開業。 (平成25年)-未明からの大雨により国道46号以南の地区を中心に甚大な被害が発生する。 10日朝までの24時間降水量は268. 5mm(町観測史上最高)。 行政 [ ]• :(就任、1期目) 町の施設 [ ]• 町中央公民館「野菊ホール」• 町立図書館(野菊ホールに併設)• 町雫石公民館• 町御所公民館• 町御明神公民館• 町西山公民館• 町総合運動公園 県の施設 [ ]• 岩手県営屋内温水プール 警察 [ ]• 雫石交番(町中心部を管轄)• 西山駐在所(町北部・網張温泉・小岩井地区を管轄)• 御所駐在所(町南部・御所湖畔・盛岡市繋地区を管轄) 消防 [ ]• 盛岡西消防署雫石分署 金融機関 [ ] は、に本所を置く、 JA新いわて を指定している。 町役場内にはではなく、JA新いわて雫石支所を母店とする有人が設置されている。 ・岩手銀行雫石支店 ・北日本銀行雫石支店 雫石町消防団 [ ] (平成21年度時点)• 条例定数 367人• 実員数 306人• 水槽付 1台• ポンプ車 17台• 小型動力ポンプ 8台• 本部(25人)• 第1分団(63人)• 第2分団(62人)• 第3分団(80人)• 第5分団(83人) 姉妹都市 [ ]• 「友好都市青少年留学の翼派遣団員」が正式名称。 産業 [ ] 企業 [ ]• 盛岡セイコー工業 - の子会社。 雫石高級時計工房があり、などの製造を行っている。 郵便局 [ ]• 雫石郵便局(集配局、〒020-0599)• 御所郵便局• 鴬宿温泉郵便局• 御明神郵便局• 岩手西山郵便局• 83%減の16,981人であり、増減率は県下33市町村中14位。 教育 [ ] 高等学校 [ ]• 中学校 [ ]• 小学校 [ ]• 雫石町立雫石小学校• 雫石町立七ツ森小学校• 雫石町立御明神小学校• 雫石町立橋場小学校(2018年・御明神小学校へ統合)• 雫石町立上長山小学校(2018年・西山小学校を統合新設)• 雫石町立下長山小学校(同上)• 雫石町立西根小学校(同上)• 雫石町立安庭小学校(2017年・御所小学校を統合新設)• 雫石町立大村小学校(同上)• 雫石町立南畑小学校(同上) TVチャンネル・ラジオ周波数 [ ] 雫石町内テレビ中継局• (生森山)• 滝沢市大釜地区、盛岡市猪去・繋・黒石野地区でも当局を受信している世帯あり。 また当町北部ではも受信可能。 なお橋場地区は山陰になって生森山からの電波が届きにくいため(盛岡親局)を受信している。 在盛ラジオ放送はAMが盛岡親局(・)を良好に受信可能。 なお当町内にFM中継局は未設置なので盛岡親局(紫波新山)を受信する(ただし山陰のため場所により雑音混じりとなる場合があり、紫波新山に向けてFM屋外アンテナを立てている世帯もある)。 橋場地区の一部では隣県のも936kHz経由で受信可能(高感度ラジオを用いた場合は盛岡市内の一部でもABSラジオ936kHzを受信可能。 なお仙岩トンネル内では、地元IBCラジオ684kHz・隣県ABSラジオ936kHz両局を再送信)。 交通 [ ]• 全国大会 マスコットキャラクター [ ]• しずくちゃん(絵本やアニメのとは異なる) 文学に登場した雫石 [ ] が雫石町の七ツ森、など町内にたびたび立ち寄ったという記録がある。 小岩井農場の牧歌的な情景は「」の詩にも影響を与えている。 雫石町の狼森や笊森などが賢治童話「」のモチーフとなった。 の時代小説「」の主人公、隊士の妻しずの実家が雫石にある、という設定で物語の舞台となった。 の推理小説「」弁護士高林鮎子シリーズでも雫石川などが舞台となった。 の推理小説「」十津川警部シリーズでも雫石が描かれた。 の推理小説「」でも雫石の小岩井農場SL館が舞台になり、、義経伝説などが絡み合った物語が描かれた。 出身人物 [ ]• - 小説家• - 漫画家• - キックボクサー• - 実業家。 - ラグビー選手。 脚注 [ ] [].

次の